さて、一九四〇年、大学三年生になって、私は正式に中 国語の勉強を大学ですることに決めた。当時は今と違って、 中国語や日本語を学ぶ人は極めて少なく、その大半は中年 婦人だった。なぜそうなのか、今でもよくわからないけれ ど、たぶんニューョークで一番暇な人たちということだっ たかもしれない。授業はいかにものんびりしたもので、一 文一文ゆっくりと読み、先生は下手な字でそれを黒板に書 き、私たちは同じようにノートに写した。大した進歩も認 められなかったものの、一方で、毎日のように李君と一緒 に昼食を食べ、彼からュ産は唐時代の詩の説明を受けたり していた。 そんなある日、大学の図書館で中国語の自習をしている と、見知らぬアメリカ人の大学院生がやって来て、 「あなたは毎日のように中華料理を食べているそうですが、 今晩、私と一緒に食べて下さいませんか」 と誘われた。その頃、私は金がなく、昼の中華料理屋で、 三十セントと三十五セントの定食のうち、せいぜい月に一 度か二度、高いのにありつければよいほうだった。そんな 具合だったし、面白そうな人なので、私は喜んで誘いに応 じることにした。 で、ご馳走になりながらその人の話を聞いていると、彼 は五年間も日本や台湾にいたのに、周囲に英語のできる人 がいつもいて、とうとう日本語を覚えられなかった。片言 しか話せない。そこで彼が言うには、自分には山に別荘が あるから、そこへ日本人の家庭教師を招いて日本語を勉強 してみたいと思う、一人だとサポるだろうし、二、三人で 励まし合いながら学んでみないか、と私にも日本語を勧め てきた。私にはまだ例の反日感情があったが、それよりも、 恥ずかしながら、まず山へ行って人並な生活をしたいとい う欲望のほうが強かった。 その一九四一年の夏、私たちはアメリカ合衆国南部ノー スカロライナの山のほうへ行ったのである。別荘に着いて みると、家庭教師は既に来ていて、果樹園で果物を折って いた。彼は何も説明せずに、その果物を指差して、いきな xxxxxxxxxxxxxxxxmissing a bit 書だった。まあ小学校一年生としてはかなり面白い中身 だったと思うが、それにしても私はもう小学一年生とはか なり齢が違っていたし、趣味も異なっていた。しかし、ほ かに教科書といっても、アメリカ人のために作られた日本 語読本は、私の知る限りまったくない。第一べージは例の、 サイタサイタサクラガサイタ"。ほかに修身の読本もあっ て、。サイタサイタ"に比べれば多少面白かったが、その道 徳観は私のそれとは大いに矛盾していた。 とにかく、日本語は中国語より何倍も難しかった。それ でも私は、その難解さ自体に興味を感じ、日本語を克服し ようと一所懸命勉強した。家庭教師は猪股忠君という人 で、彼はアメリカ生れだったが、小さい時に家族ともども xxxx missing lines 54-60